ルチアーノショー寄稿ブログ

10日、新ルチアーノショー準備室にインターネット回線が開通したらしく、ジュワキ・タケダのブログラッシュが見られた。
まるで敵をコーナーに追い詰めひるまずパンチを繰り出すボクサーのように、ジュワキ・タケダはインターネットという大海原にブログを書き殴り解き放ったが、その後パタッと静かになった。

先週水曜日頃だろうか、ジュワキ・タケダから「留守番電話変えてみました」と来たので早速鳴らしてみると、支配人が出稼ぎに出たから2日間休むと案内しているではないか。ブログ新作の様子もなくついに“居場所がない”なのか文人米澤は(笑)。

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最近人に勧められてNUMBERS 天才数学者の事件ファイル(米2005-2010)というアメリカのドラマを見始めた。
数学の天才教授が兄の働くFBIでアドバイザーとして活躍するというストーリー。
※アメリカ国家安全保障局(NSA)のアドバイザーも務めており、国家レベルで重要な役割を果たす人物だ。

これが狂おしいまでにおもしろい。
おもしろすぎる上に天才数学教授の名前が“チャーリー”だという点も興味深い(笑)。チャーリーと呼ばれる度に返事をしそうになる(笑)。
私は数学は(も)全くダメだが、少なくとも番組の展開から見てとれる思考回路は私とそっくり、うり二つ。

“チャーリー”は全てを方程式で解き明かし、数学で解けないものは数学に問題があるのではなく、数学を使おうとしている人間の問題であるとまで言い切る。
これは包丁で人を刺して殺人事件が起きても、包丁に問題があるのではなく、包丁の使い道を誤った人間に問題があるソレに似ている。

彼は事件を数学的見地から分析し、時にはFBIを相手に花びらの数でさえ、為替や株のチャートにも応用されている「フィボナッチ」数列に沿っていることを解説する。
※実際に、カタツムリの巻き方や勾玉など数学的に見るとフィボナッチ数に準じており、数が大きくなると黄金比(1:1.618 )になる(完成する)ことで知られている。

第1シーズンでは早速“モンティ・ホール問題”も出てくるので、このブログをおさらいしているかのような錯覚に陥った程。

元「師」であり、相談役かつ友達でもある物理学の教授も、常に量子論から意見・アドバイスを述べ、2人のやりとりはまさしくパブ・イーグルの様相だ。
この物理学者は発明よりも発見こそが科学であると断言する。
私にとってとても印象深い言葉だった。
発明とは、既に発見されているアルゴリズムや式を元に、我々が住む地球上で何かが生み出されることを指しており(雑に言うと「組み合わせ」「応用」に過ぎない)、発見とはまさしくその基礎となるアルゴリズム(ルール)を見つけることであるという。
「式」がなくても計算できる人は少ないのだから、現代の物事の多くは誰かの「偉大なる発見」によってその上に成り立っているということが言える。
もちろん宇宙はその「答え」を既に知っており、人間がそれに気付くか気付かないか、これこそが科学であるという心意気に胸が高鳴った。

料理(味)や音楽(旋律)も同じことが言える。
新しい物質や生命、新しい音程などを発見しているわけではなく、調理方法・演奏技法や食材・音符の組み合せによって生み出されるもの、いわば「カクテル」だ。

私は料理よりも音楽の方が詳しいので音楽で例えると、現在の12音階で言えば、12音×12音×オクターブの組み合わせしかなく、オクターブを考慮しなければ、現在の音と次の音の進行予測は12音×12音=1/144の確率でしかない。あと144人いれば確率・統計的に見ると必ず同じ進行が生じるということ。
※実際の現代音楽は、和音(コード)進行の上に旋律があるため、必然的に更に「次」の音の選択肢は狭められる。

12音階(平均律)になってもう400年以上も経つのだから、144パターンの繰り返しで「似てないメロディ」を作ることは日に日に難しくなるのは当然だ。
そしてπのようにいずれはランダム(均等)に収束するならば、どの進行(展開)であろうと例えばサイコロのように次のマス目(音符に置き換える)を見てイチイチ驚くことはない(目新しいものはない)状況になることは想像に難くない。

最も数学的な音符の羅列といえばバッハ。
そんな本日のBGMは 「音楽の捧げもの」(BWV1079)から「六声のリチェルカーレ」by J.S.バッハ

まるでパズルのように複雑な旋律を何重にも組み合わせていくバッハ。

-------Wikipediaより引用
バッハが1747年5月7日にフリードリヒ大王の宮廷を訪ねた際、以下のようなハ短調のテーマ (Thema Regium) を大王より与えられた。
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省略
翌日6声のフーガの演奏を求められたが、さすがに即興では難しく、自作の主題による即興演奏を行った。のちにその場で果たせなかった6声のフーガを含むこの作品を王に捧げたと言われる。
-------Wikipediaより引用終わり

バッハの偉大さは言うまでも無いが、この主題(主旋律)を提示した王も見事だ。
主題に見られる絶妙な半音階は間違っても「賢くない王」のメロディではない。バッハも即興対応できない程の複雑さを持ち合わせていながら、後に6声のリチェルカーレとして完成を見るこの主旋律はどこまでも数学的だ。
ただ複雑なだけで完成を見なければ、それは次第に欠陥として見なされる可能性さえあるのだから。
大バッハを持ってして完成するということは、秀逸な旋律であることを証明されたようなもの。

何か理屈ばっかりで堅苦しくなったので、ちょっと違うアングルをご紹介したい。
以前このブログにも登場した英国オックスフォード大卒であり元MI6職員である“エルシー”(現在ドキュメンタリー作成中のためブログ記事は非公開設定に変更)とのあるディスカッションから彼女が導き出した理論は極めて数学的だった。

「モテる男は信用できない」というテーマ(笑)。
※MI6がそんなテーマを研究しているのではないことを申し添えておきたい(笑)。

たまたま目の前にあった雑誌に、ある読者がアンケートに答え「モテる男は信用できない」と力説している記事が載っていた。
その理屈は「あっちにもこっちにもいいことを言うから」(八方美人、お調子者)というもの。
それを見たエルシーは、冒頭のジュワキ・タケダのようにすぐさま雑誌をコーナーに追い詰め、独自の理論をぶちまけラッシュをしかけた。パウンドさえも見舞わんばかりに。

彼女の理論はこうだ。
中途半端にモテる男はお世辞を言う必要があるだろうが、本当にモテる男は自分が本当にいいと思わない限り「綺麗だよ」とか「素敵だね」なんて言わないはずだから(女性の顔色をうかがう必要がないから)、むしろ本音しか言わない可能性が極めて高い
という「確率」論だ。
※かといって「いい人」かどうかを判断する材料にはならない。

さすが大英帝国、さすがSecret Intelligence Serviceだ。
裏の裏をかいている(笑)。

私の理屈が伝染しただけという説もあるが、まぁアレみたいなものだ。
ライバル意識があるうちは「負けたくない」という気持ちから見栄を張ったり嘘をついたり自慢したりするが(多くの人間はこれで失敗する)、例えば世界一の大富豪がレストランに行き、隣のテーブルが自分より高いワインを飲んでいたからと言って、見栄を張って「もっと高いワインをくれ」とか「この店で一番高いものをくれ」とは言わない(はず)。むしろこの人が5万円のワインよりも3万円のワインを「美味しい」と言えば、少なくとも本人は嘘は言っていないだろうと推測できる。嘘をつく必要性もなければ全てのワインを試すという選択肢を持っているのだから。
※張り合っている間は大して変わらないレベルだ。
これを当てはめると、綺麗なモデルや女優も見慣れているだろう世界でいちばんモテる男が、もしどこかのある女性店員さんに「貴女の笑顔は素敵ですね」と言えばそれは信じるに値するということが言える。という理論。

これは数学なのか量子論なのか知らないが(笑)、実に優れた計算結果だと思う。
「NUMBERS 天才数学者の事件ファイル」の“チャーリー”も納得するに違いない。

そもそも「宇宙の誕生」自体が確率論で言えば「あり得ない」のだから、宇宙や地球が存在するということは、全てのもの(考えつくもの)があり得るということ。

というわけで先週も休んだチャーリーの寄稿ブログですが、徐々に元のペースに戻る次第であります。

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by charlie-ls | 2015-01-22 00:04 | 【赤坂】ルチアーノショー寄稿ブログ

今日08日、新ルチアーノショー準備室の電話が開通した。
マイク・タケダと文人米澤詰め所と言われているが、まだインターネットがつながらないらしく、彼らのブログは来週当たり登場するかと思われる。
噂によると留守番電話でマイク・タケダのトークショーが聞けるとか、うまくタイミングが合えば文人米澤の人生相談に着信するとか。
早速夜になって電話してみたところ(笑)、かしこまったマイク・タケダの何の変哲もない留守番メッセージが流れていた(笑)。
マイクを運び忘れたというマイク・タケダにとって受話器は唯一のマイク代わりだ。

第11シーズンのBGMは“無音”ですかというくらい静まりかえっているという詰め所。
そこから何が発信されるのか楽しみだ。

最後の晩餐」のフォトセッションの最後、モデルのアントニーナの希望でスナップショットを撮影した。
ドレスの雰囲気も良く出ていたのでご紹介したい。
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アンナ “ひまわり” カレーニナのために用意されたドレス。

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よくお似合いで。

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なかなかこういうドレスが似合うレストランがありませぬな。

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2年程前、お茶目なアントニーナに向けて作られた“アンチョビーナ”という本人限定メニューも存在した。

そんな本日のBGMは、Sinfonia Concertante in E flat, K. 364: II. Andante by Mozart
私は赤坂ルチアーノショーのテーブル照明のように、頭上(天井)から一発垂直に落ちるピンスポットライトのようなライティングが好きだ。
まるでバロックのようで美しい。

※このスナップショットはステージの照明(3灯)で撮っている。
 バロックよりはモーツァルトだと思いこの曲を選んだ。

照明が一灯であるということは影も1つ。よって空間に迷いがない。
テーブルを挟んで向き合う2人も同じ景色が見えているに違いないからこそ「2人の世界」に入り込むのに適している。
バロックと2人の世界と言えばマイク・タケダの「バロックと二人の世界とルチアーノショー」がまさしくこのテーマを語り尽くしている。

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Vase of Flowers by BARTOLOMÉ PÉREZ 1690

バロック時代の絵画を見て「暗い」「重い」という印象を抱く人は少なくない。
しかし本当に「暗い」のだろうか。
色調としては確かにどす黒いものが多く、黒から焦げ茶で覆われた背景の中に突如原色の華や果物が描かれる。
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この時代は照明自体がなく(エジソンが生まれる150年以上前だ)、太陽光や月明かりなど常に“唯一”の光源しかなかった。
小窓を開ければそこから直線的に差し込む光線のみで被写体は照らされ、必然的に光が当たる箇所を除いてはほぼ真っ暗になる。
現代のような透き通った大きな窓ガラスがあるわけではないので、開けるか閉めるか(0か1か)という環境。
よってこのハイコントラストは“必然”だ。

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これ程までに光源に恵まれた現代、もし今全ての灯りが消え、暗闇の中小窓から差し込む光だけで何をしますか?と問われたら果たして絵を描くだろうか。
暗いというだけでパニックに陥ったり鬱になる人もいるかもしれない。
絵なんて描けたものじゃない!という人の方が多いのではないかと思う。
バロック絵画は僅かに照らされた被写体の一部をハイライトとして強調し、それ以外の部分をシャドーとして極めてハイコントラストに仕上げている。

私の独自の解釈はこうだ。
暗闇の中、そのほんの一握りの光に目を向け描き上げる心の持ち主は誰よりもそして何よりも明るい。
「明」「暗」という区別よりも希望の有無と言った方がいいだろうか。
他人がうつむいた時に星空を見上げるような人物ではなかろうか。
ない何がないではなく、あるこれがあるという心。
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赤坂ルチアーノショーのバーカウンターにて。

というわけで本日のBGM2は Partita No.2 IV. Gigue by J.S.バッハ(演奏ヒラリー・ハーン)

※私は過去にもヒラリー・ハーン女史のバロックな音色でコニャックを飲む。スピリチュアルリーディング的な。でハーン女史について熱く語っている(笑)。

私は決して模範的・優等生的な感性ではないので、このバロックに対する解釈も独自のものであることを申し添えておきたい。
12才頃から誰から教わるわけでもなくバロック(主にバッハ)に惹かれていった私は、今こうして写真を撮っても(露出アンダーなことはもちろん承知の上で)自ら進んでバロッキーなテイストに仕上げようとしているところを見ると、我ながら本質的な感性は歳をとっても変わらないものなんだなと実感する。
そういう私にとって、写真を撮るには(カメラマンにとっては)慢性的な光量不足の何もいいことない環境(笑)である赤坂ルチアーノショーは、人生におけるバロック体験の場だった。

ヒラリー・ハーン女史のバロッキーな音色に酔いつつ、今宵もまた赤坂ルチアーノショーに想いをはせるチャーリーであります。

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by charlie-ls | 2015-01-08 22:59 | 【赤坂】ルチアーノショー寄稿ブログ

最後の晩餐

ルチアーノショー寄稿ブログ

明けましておめでとうございます。
もうすぐ寄稿ブログ2周年を迎えようかというチャーリーであります。
早いものですな。

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最後の晩餐

第10シーズンで静かに4年のドラマに幕を閉じた赤坂ルチアーノショーにおけるチャーリー最後の作品は最後の晩餐
4メートルほどの長いテーブルの先に美女一人。
全てのテーブルにカトラリーとグラスがセットされているものの座っているのは美女一人。
この作品のコンセプトは、例え最後の一人になろうとも、ファミリーのテーブルは常に用意され続け、そこに魂が集い、この美女は代々その血を絶やすことなく、赤坂ルチアーノショーの志は脈々と受け継がれていく。というもの。
注がれた赤ワインはカリフォルニアのカルトワインの一つコンティニュアム(Continuum)=継承

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いつものごとく潔くルチアーノショーの天井照明一発撮り。
これが何の偽りもない赤坂ルチアーノショーそのもの。

ヘアメイクはロキシーに頼み、モデルはアントニーナ(露)。
新体操極東ロシアのチャンピオンでもある彼女はアンナ “ひまわり” カレーニナに続き、私の思う女性像を見事に表現してくれた。
高貴で憂いを感じやすい危うさと繊細さ、エレガントさが入り交じる複雑な雰囲気を醸し出している。
仕上がりを見た彼女のお母さんは「この女性は誰なの?」と尋ね、実の娘だとはわからなかったと言う。

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「チャーリー赤坂最後のバロック」を唄い当日ぶっつけ本番で行われた撮影。
そんな本日のBGMは Sposa son disprezzata by Antonio Lucio Vivaldi (Soprano Cecilia Bartoli)
ヴィヴァルディのオペラ「バヤゼット」から。
曲の内容(歌詞)とこの作品のテーマとは無関係だが、アントニーナと言えば彼女自身も好きなアントニオ(ヴィヴァルディ)は言うまでも無くバロックの巨匠であり、そしてこの美しいソプラノの旋律は、撮影中私と彼女を赤坂ルチアーノショーの奥深くに熱く燃え続ける志と崇高な世界観に再び導いてくれた。

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私はこれほどまでに美しい空間を見たことがない。
タキシードの男性とドレスの女性を当たり前に包み込み、まるで太陽のように音もなく黙々と主役を照らし続けるハロゲンライト。
生地からはシルクのような光沢を引き出し、ジュエリーには余すことなく輝きを与える。
グラスに注がれたシャンパンの泡は天に昇るかのごとく舞い上がり、シャルドネは目映いゴールドの閃光を放つ。赤ワインはガーネットのように僅かに向こう側の景色を映し出し、差し込んだ光はグラスの底から抜けだすと万華鏡のようにテーブルクロスを紅色に染め上げる。

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美しい旋律とステージを舞うバレリーナ達。
ケムリ(葉巻)を吹かせばそこにドラマが投影される。人生という名の。

私はこの素晴らしい空間を写真と文章で世界中の人達にお届けできたことが本当に幸せでならない。
この場を借りて、4年間共に働いた人達にもお礼を伝えたい。ありがとう。
飲食店というのは、多くの場合舞台裏を見ると外食が嫌になるというが、働いている人達が「食事をするならルチアーノショーで」と思える店作りを絶対条件に掲げていたルチアーノショーは、本当にどこを切り取っても素晴らしかった。いつかの食事のために、女性スタッフ達がロッカーにドレスを用意しているレストランが他にあろうか。
こういったことはスタッフが自分の口から公言しづらいところだと思うので、カメラマンという私の立場から皆様に是非ともお伝えしたかった部分であります。

赤坂の夜に華を添え、東京の晩餐を彩り続けたルチアーノショーに乾杯。

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第11シーズンの幕開けを宣言しつつ、ルチアーノショーの新しいドラマにご期待いただきたい。

※忙しさに紛れて先週25日の寄稿ブログを休んでしまったので、今週は2本お届けする所存であります。

あなたの心の中でいつまでも。
ルチアーノショー。

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by charlie-ls | 2015-01-02 00:00 | 【赤坂】ルチアーノショー寄稿ブログ
ルチアーノショー寄稿ブログ

に代わって、ロキシーの叫び。
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あうっ!呑んでたらデートに遅れちゃったわヨォう!(どうしてくれんのアンタみたいな)
※フィクションです。

いいんじゃないか。
そこに道がある。

目を開けた時、そこに見えたもの。
それが道。
例え5円玉しか転がっていなくてもそれが道。
海のど真ん中で“道”が見えなくてもそれが道。

目を開けたってことは、生きてるんだから。
そこには道がある。

そんな本日の思いつきBGMは "That's Life" by Frank Sinatra

フランクはこの曲で人生の浮き沈みを唄っている。
この“ロキシーの叫び”はただの思いつきだが、原題の「綴り」──しかもフランス語版(笑)──を調べている際に知ったことがある。

Wikipediaによると、エドヴァルド・ムンクの「叫び」は、

幼少期に母親を亡くし、思春期に姉の死を迎えるなど病気や死と直面せざるを得なかった1890年代のムンクが、「愛」と「死」とそれらがもたらす「不安」をテーマとして制作し、「フリーズ・オブ・ライフ(生命のフリーズ)」と称した作品群のうちの一作であり、『叫び』はその中でも最も有名な作品である。

とある。そして、

「叫び」はこの絵で描かれている人物が発しているのではなく、「自然を貫く果てしない叫び」のことである。絵の人物は、「自然を貫く果てしない叫び」に怖れおののいて耳を塞いでいるのである。

と言う。

エドヴァルド。
感度」が高かったんだろう。なんせ芸術家だ。

世の中無数の“叫びが飛び交っているが、聞こえない又は聞こうともしない人もいる。
ラジオで言えば、電波は我々のすぐ真横を飛んでいるが、チャンネルが合っていない・合わせていない状態だ。よって受信しない。
スピリチュアル用語でいえば“チャネリング”か。

自分に聞こえないもの=存在しないのではない。
存在するが聞こえてない・聞いてないだけだ。
モスキートトーンのようだ。

エドヴァルドには聞こえたに違いない。
感度が高すぎると、耳をふさぎたくもなる。
その後病んで精神病院にも入った様子だが、無事80才の誕生日も迎えている。
いいんじゃないか。“道”があったんだ。

これも思いつきだが、私の好きな映画トゥルーマン・ショー」(The Truman Show 米1998年)をご紹介したい。
ジム・キャリー主演の映画で、エンディングは私の心を大きく揺さぶった。
ある1人の人生そのものをTV放映するというまさしくハリウッドなストーリーだ。

劇的な“視聴率”を誇る「TVショー」。
始まりは「そこまでやるの」「やれやれ」と思いつつ、ワイドショー的なノリで観るようになった人も多いだろうが、人々の心をつかんで離さないその魅力は、シナリオや演出ではなくトゥルーマン本人、そしてその人生に向けられていたことがわかる。

そう。
人生とは芸術だ。

人生こそが芸術だ。

内容は異なるが、1人1人の人生に強くフォーカスしていくルチアーノショーの視点は、何かトゥルーマン・ショーを観ているかのような気持ちになる。
カメラマンとはその芸術的瞬間を切り撮っているにすぎない

すなわち、カメラにおける芸術とは被写体だ。

πのように、同じ「瞬間」にはもう会えないだろうから、
In case I don't see ya, good afternoon, good evening , and good night! - by Truman Burbank

だから瞬間瞬間が楽しくてならない。

/*
今回の思いつき連発ブログはチャーリーの新理論「シナプスマッピング」に基づく第一弾。
連想して思いついたままに構成していくことで、自己の中でコレソレ潜在的にどういった関連性を持っているのか客観的に(シナプスベースで)評価するための考え方。ロキシーとムンクとシナトラとトゥルーマン・ショー。自分でも不思議な展開だが、叫び、人生、感度、チャネリング、芸術、被写体、π、瞬間とつないでいくと、何か納得できる関連性が見いだせた。
*/

ロマンに酔いたくなったらルチアーノショーへ。

●あとがき
シンディ・ローパーをモチーフに撮影したRock'n CHIVASがFacebookでいいね!3,800件を頂戴し、エキサイトのブログランキングでジャンル2種において1位を獲得しました。ありがとうございます。フォーマルかつエレガントなルチアーノショーには若干過激な印象もあっただろうことを思うと大きな冒険でありました。今後もお騒がせ致します(笑)。

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〒107-0052 東京都港区赤坂5-4-7 The Hexagon
TEL : 03-3568-4818

地下鉄千代田線赤坂駅4番出口から右手に徒歩30秒。
赤坂サカス、TBS、ACTシアター、BIZタワー、ブリッツと隣接した赤坂通沿いです。

by charlie-ls | 2014-07-10 00:06 | 【赤坂】ルチアーノショー寄稿ブログ
個人ブログ

今年「偽ベートーヴェン」問題が世間を賑わせた。
多くのコミュニティで「裏切られた」という発言をしている人たちがたくさんいた。
尋ねてみたいことがある。

何か彼と契約でもしたんだろうか。

CDを買った。その支出に対し、当初予定していたもの(聴覚障害者)と違っていたことに対する「裏切られた」なのだろうか。

聴覚障害を持つ人が創った曲だからいい曲だと思ったのだろうか。
それとも聴覚障害を持つ人を応援するためにCDを購入するという「支援目的」の支出だったのだろうか(これならわからなくもない)。

ベートーヴェンは耳が聞こえない(ことになっている)から、何百年もの間優れた音楽家として評価されているのだろうか。
ある一説では「聞こえていた」とも言われている。代表作「運命」は、3歳の頃亡くなったおじいちゃんの譜面からパクったものとも言われている。

バレる前に死んで良かったねという話なのだろうか。
バレたら世の中からベートーヴェンの曲は瞬く間に消え去るのだろうか。
作品(音楽)自体は評価対象ではないのだろうか。

そうなると、バレるかバレないかの違いしかないんじゃないか。

私にはわからない。

「信じた自分」はどこに行ったんだろうか。
その曲を「いい曲だ」と感じた自分の感性はどこに行ったのだろうか。

聴覚障害者として不正に金品を受給していた、或いは控除によって納税等を免れていたというのならそれは処罰されるべきだし全て返還すべきだが、これは音楽CDという「作品」の出来映えとは関係ない

映画やドラマなんてほとんどが作り話(フィクション)だし、プロデューサーがいて役者がいる。
その作り話に世界中は興奮し、涙してきた。
まさしくそれがエンターテインメント(娯楽)だ。

新垣氏と佐村河内氏はまさにそんな関係だが、もし耳が聞こえていたことがわかった途端「裏切り」として社会から抹消されるならば、障害者の作品は障害者だから買ってもらえるのであって、「芸術」としての評価ではなく、ただの義援金(支援購入)のようなものになってしまわないか。

となると、障害者がどれだけ才能を振り絞っても、その多くの「評価」と思われたものは、障害者であることが前提でしかなく、正当な芸術としての評価は得られにくい(または得られない)ということになる。下手すればただの「同情」でしかない可能性も秘めている。

もし作品が評価されることが励みになって、障害が治癒した場合、もう売れなくなるのだろうか。
ならばその本人は悟るだろう。

やっぱり障害がないと売れないのか、俺の作品は。

それを逆手にとって、障害者のフリをする者が出てきても当然だ。
はるか太古から人の弱みにつけこむ詐欺師がいなくならないのと同じだ。

でも。
例え何かが“嘘”でも、作品自体が良かったら、作品に対して支払った対価は惜しくないはずじゃないか。
「裏切られた」は何かズレているんじゃないかと感じる。私は。

もちろん契約レコード会社が言うのならわかる。

自分に自信を持てず、何かしらの筋書きを必要とする人が増えた気がする。
 雑誌にいいと書いてあったから買った。
 ●●がいいとすすめたから買った。
 口コミレビューにいいと書いてあったから買った。
参考にしたとしても、最後の判断は自分ではないか。「買わされた」わけじゃないのだし。

何か「スカイマーク社のミニスカート制服に正義はあるか。」と同じ分類の疑問かもしれない。

ニュースになるまで私は存在自体知らなかったが、今日初めてフィギュアスケートで使用された「ヴァイオリンのためのソナチネ」を聴いてみた。
新垣氏本人が言う「現代音楽の勉強をしている者なら誰でもできる」はその通りだと思う。“ちょっとした映画の挿入歌”という印象でしかなかった。
音と音のつながりが“劇的”ではなく、教科書的な旋律に聴こえる。
自身が影響を受けた曲をつなぎ合わせたような、代表的な旋律展開の集合体と感じた。
私だったら聴覚障害のある人が創った曲でもそうでなくてもCDは購入しない。

ニュース記事によると新垣氏本人も当初「売れるわけがない」と思っていたらしい。

いずれにせよ最後は自分の好き・嫌いだと思うのだが、なぜ“裏切られた”と感じるのかが、私にはわからない。

本だってほとんどがゴーストライターによるものなのだし、今更どうしたんだろうと思う騒動だった。

ベートーヴェンの「悲愴」第三楽章から感じる緊迫感とどこかヒステリックな展開は“アーティスティック”だ。
だから作者の耳が聞こえていたとしてもそうでなかったとしても、私はこの曲を聞き続けるしいい録音があれば追加でCDも買う。

※この記事はチャーリー個人ブログであり、ルチアーノショー寄稿ブログではありません。

by charlie-ls | 2014-05-03 22:08 | 個人ブログ | Comments(0)

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