賢い人、賢くない人の特徴。IQ、学力、知識を束ねるのは性格(感情)。

いIQ(または学力、知識)を持っているのに“上手く”いかないのであれば、それは大凡性格(感情)が災いしている。

これは、為替や株のトレードが実に良い例だ。専門家と言われる人達は、高学歴で、誰よりも多くの専門的知識を身につけ、そしてより早く有益な情報を得られる特別な環境にいながら、大金持ちは増えていかない。自宅でトレードでき、上司もいない。人間関係とかコミュニケーション能力、世渡り術は一切問われないのにも関わらず。

IQ、学力、知識がどんなに高くても、それらでは計測されていない、性格(感情)がその能力を阻害しているからだ。

ここで言う性格(感情)は、世間の言う「EQ」とは違う。EQはおおむね「協調性」の評価が主体であり、集団行動を前提としている。しかしそれは、個人宅のトレーダーにとって、何ら重要な要素ではなく、ここでは意味をなさない。

仮に「IQ」で“賢さ”は計れないとした場合、社会における「実践」(現場)ではどういった点で判断するのか、心理的側面から分析してみた。
※あくまで私の感覚なので、皆さんの感じ方は異なるかもしれない。


い人は、素直にいいものを「いい!」と認める。
自分がゼロから作るよりも、いいものはいいと認めて、参照・引用・紹介、参考にした方が早いし(この迅速・速報性を競う傾向がある)、その方が「質が高い」事を知っている。見たもの出会ったものが(今の自分よりも「優れている」と理解する力がある。見栄を張って無駄な時間を消耗しない。決して「追いつけない」とか「負けた」と卑屈になるわけではなく、現時点での自己評価が「正確」だ。そして、下手に講釈をたれて、3時間も喋った後に、スマートフォンをいじっている若手を注意したかと思えば、わずか30秒でもっとわかりやすい文献・記事を見せられた時のかっこ悪さの方に気を遣う。現代的でもある。

何をかっこ悪いと思うかで、その人の本質的な性格が見てとれる。往々にして、コンプレックスやトラウマ、苦手意識が大いに表面化する。

賢くない人は、例えいいものであっても、何かしらケチをつけることで自分の優位性を示そうとする。
示そうと努力しているのであって、実際に示せるかというとそうではないことに気付かない。「悔しい」(または「うらやましい」)という感情優位になり、「自分だって(本気を出せば)このくらい(或いはもっといいものを)は作ることができる」と振る舞うことで、いつしか本当に錯覚してしまう。大方周囲は大して期待していないか、「あなたには無理」と思っていることにも気付かない。しかしそれがまた「意固地」になる原因にもなっている。周りが「認めようとしない」(妨害されている)と受け止めてしまう。被害妄想に陥る。「その場」での優位性(優越感)に拘る傾向が強く、「知らない」ことを“かっこ悪い”と感じるので、「あぁ、あれはね、あーなんだよ、こーなんだよ」と、知らないことでもつい適当なことを語ってしまい、後始末に追われるはめになる。

/*
相場で言う、「損切り」の決断タイミングは、これらを明確に示してくれる。
前者は素早く、後者はロスカットまでいく。
*/


後者においては、ホテルのラウンジなどで演じる「カバーバンド」(ソロでもいいが)などに、時として共通した感情(自己主張)が見られる。
有名な曲をカバーし、拍手がおきる。が、せっかくの名曲なのにアレンジしすぎて(自分色、個性を重視しすぎて)、場合によっては「原曲通り演奏してよ!」とクレームが出る。「私はただのCD再生機ですか」と言いたくなる気持ちはわかるが、多くの場合、客席にいるのはそのバンドのファンなのではなく、ラウンジの顧客だ。名曲が流れたことに対するフィーバーであって、バンドの個性とか色とかを求められているわけではない。それを求めてもらえるバンドは、カバーバンドでないことの方が当たり前に多く、カバーバンドである限り、名曲を忠実に再現することの方が拍手を得られやすいことも当然の結果だ。
既にバンドとして成功していて固定ファンがいる場合に、ファンサービスとして名曲をカバーし、オリジナルアレンジを聴かせるのならば、ニオイすら放たんばかりに、個性が強ければ強い程喜ばれるだろう。ファンはそのバンドの「色」を愛しているのだから。

自分がなぜココにいるのかを考えたら、本来はわかっていて当たり前(他人のことなら冷静に判断できるはず)なのに、いざ自分のこととなると、「ラウンジのBGM」という立場を忘れて個性を主張し、しまいには「ここのリスナーには感性がない」と、自分のファンでもない「ラウンジの顧客」にダメだしする人さえいる。
そして同僚にさえ「自分でコンサート開いたら?」と軽くあしらわれてしまい、「世の中おかしい!」とまで感じるに至る。

これは、どちらがいいという話ではなく、「向き不向き」(=自分の特性)を理解していれば、下手な主張をして、結果的にハズすこともなくなる(はずなのに)というサンプルだ。
芸人コロッケのように、物まねで大成功する人もいるのだから。彼は、個性のかたまりであり、真似ているオリジナルの人物を更に個性的に仕立て上げる力さえある。※長らくテレビ出演のなかった芸能人を、ゴールデンタイムに引っ張り出すこともある。

「賢さ」は己を知ることから始まる。
そして、相手から自分に何が求められているのかを知ることに終始する。
それをうまく取りまとめ、自己消化させる際に、性格(感情)に大きく左右される
一言で言えば、客観的に需要と供給を理解することだ。

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分自身が自分の過去についてよく知っている。
「示したい」と思う気持ちは、自分の能力を他人が「まだ」(*1)わかっていないと思っている。それは、他人が自分の能力を思い知るようなことを、まだ何もしていないことを知っているからだ。※既に実績があるならパンフレットでも出せばいいのだから。
だからその(思い知らせる)日が来るまで、いかなる他の能力も認めようとしない。「負けを認める」ことと勘違いしてしまうのだろう。
(*1)本当に「まだ」(未)なのか。或いは能力がない(並なのか劣っている)のか。現時点での「相対的」な評価が正しくできない時点で、己の座標を見失っているのだから、少なくとも賢くはないし、自己過大評価の可能性が極めて高い。

「知らない」「わからない」は決して“間違い”ではなく、知ればいいし、解ればいい。

参考資料:
能力の低い人ほど根拠のない自信に満ちあふれている。「ダニング=クルーガー効果」とは?
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52191924.html


飽くまで「現時点」での「相対的」(社会的、一般的、世の中的)な評価だと念を押したい。
さもなくば、IQのように「人の能力を測ることはできない」とかき回されることになっていまうから。

それでも「相対的」の基準となる社会的、一般的、世の中的と言われると、「社会って何なの?一般って何なの?世の中って何なの?ワケワカンナイ!」と取り乱す人が、必ずと言っていいほど存在する。
いや、その社会とか一般とか世の中に認められたいから自己主張し、受け入れてもらえない反動で他人を認めたくなくなってるのでしょう?と聞かなきゃいけない張本人のはずだ。
本当に他人を気にしていなければ、「普通(社会、一般、世の中)の人って確かにそうだよね」と、ひっかかりもしないのだから。

/*
CDを売りたい音楽家にとって、売りたい相手は社会であり世の中だ。その中には一般人もプロもいるかもしれない。それでも“「一般的に」売れる曲”というものが存在することは事実であり、自分の曲が売れないこととは関係ない。そこで社会とか世の中とか一般という定義そのものに文句を言ったところで、売れないという事実は変わらない。その売れない事実をもってして「一般的にこの曲は売れませんよね」と言われても、事実でしかない。
そこで例えばロックバンドは、「世の中」の「一般」とか「普通」とか、そういう「枠」をぶっ壊してやりたい!と意気込んでみるが、本来それを壊す必要はなく、自分の曲を好んでくれる人達に聴いてもらえばいいだけだ。他人の領域を壊すのは、押しつけの正義でしかない。例えるなら、他人の家のインテリアが気に入らないから、「ぶっ壊してやる!」と入り込んでぶっ壊し、自分のインテリアに置き換える行為に似ている。
*/


が、「示したい」のは、実は他人に対してではなく、本当はまず自己に示したいのだろう。
やればできる、俺(私)の能力は本当はこんなものではない、必ずいつか見返してやる。と言った具合に、実際には自分に、他人が納得するような材料を持ち合わせていないことを知っているから、他人から高い評価を受けるはずもないことを自覚している。潜在的には。

しかし問題は更に悪化する。いいものをいいと認めず片意地をはっても、周囲がそれを「いい!」と認め、いつしか(例えばノーベル)賞をとったり、教材に載ったり、社会的に「いい」と賞賛され、いいことが“事実”になった時、再び自分の過去=「ケチを付けた」という“実績”が重くのしかかってくる。その時になって「ほらね、いいねって言ったでしょ」と居直る人もいるが、どうせ相手にされていない(社会にも“スルー”という自然治癒力がある)はずなので、ここでは取り上げない。
もちろんその時、もっといいものを創り上げていれば、反論することも、認めさせることもできるだろうが(一度アップルを追い出されたスティーブ・ジョブズのように)、残念なことに周囲は「いいものを見抜く力が(も)ない」という評価へと傾いているだろう。明らかに後退(悪化)している。
それが結果として、「社会とか一般とか世の中って何なの?」という破綻を導いてしまう。要は、周囲の評価基準と自分の示したいものがかみ合わないので、その基準自体を壊そうという破壊行為だ。


壊行為
精神の破綻を来すことで見られる衝動的な“発作”だ。
児童虐待、動物虐待、性的虐待、いじめなどがまさにそうだ。いずれも自分の優位性を示そうとすることで行われる(なおかつそれで欲求を満たそうとする)。
そういった人達は、自分が絶対に勝てないと思うような、例えば街でイノキを見かけたからといって、いきなりドロップキックはしない。

ちびっこが、スゴロクや将棋、囲碁、チェスなど、何かしらのゲームを大人とやっていて、負けそうになったら「ちょっと待った」とか、一手戻してみたり、相手の手に対し「それはなし」とかケチつけてみたり、「大人なんだから手加減してよ」とか、盤をひっくり返してブチ切れてみたり、そんなシーンを自らやってみたり、或いは見たりしたことはないだろうか。
自分の思い通りにならないとルール自体にケチをつけたり、更にはゲームそのものに欠陥、または相手という人間性に問題があるとでもいいだす。「大人げない」とか(笑)。

大人になれば、それがあまりにも愚かな考えだということに気付くものだが、実は本当にそれがわかっているかどうかが、「社会における賢さ」につながっていると考える。

そう。IQとはまた更に別の領域。
IQで賢さが計れないとすれば、まさしくこの領域のことを指しているに違いない。

社会における。
社会。
それに認められないから、「社会って何?一般って何?普通って何?」と破綻するのであれば、好きなものほど振り向いてくれないと辛い恋愛のソレに似ている。決して異常でも何でもなく、極めて一般的な感情だ。

とはいえ、ここは四次元空間ではないのだから、まずは自分の座標を確定させる必要がある。
「日本」でもいいし、「東京」とかでもいいし、「男」「女」とかでもいい。
例えば知能検査は「日本」という前提で日本語で出てくるから、「英語もできないくせに」と言ってもしょうがない。私も英語の問題が出てきたら、当たりが悪ければ(知らない単語ばかりなら)70を切る可能性があるし、見事大当たりなら逆に加算されIQ 150が出せるかもしれない。
英語のオンラインIQテストを追加した。低くなるどころか、なぜか逆に高くなるという不思議な傾向を確認した。当たりがよければの前提だが、英語のIQテストは単語を知ってるだけで高く出るようだ。

そこで「偏差値」が出てくる。
いかなる試験もテストも、日本人全員に受けさせたわけじゃないから、当然標本調査だという前提で、その標本の基準となった人達を「一般的な」「普通の」と見なす。これも「つまんだ」人達が偶然全員メンサ会員だったら、ソレが普通になるということだ(IQテロをご参照願いたい)。
だから「IQが高い」というのも、そのテストにおいて低い人がいてくれるからこそ、「高い」という優位性を示せるのであり、どこまでいっても「一般的な」「普通の」人達が、宇宙で言えば“ダークマター”のように埋め尽くしている空間の中に我々は存在している。

ある能力が高い人は、その能力が低い人の存在によって「高い」と支えてもらっていて、その反対に、ある能力においては自分が支える側にいるということでもある。何も不公平ではない

言い換えると、私が私であり続ける根拠となってくれている「みんな」だ。

(多くの場合は、結果が低く出たか、簡単すぎて表紙抜けしたケースだろうが)「こんなの偏ってる」「不公平だ」といい、ルールを変えさせたとする。
例えばメンサのように「上位2%」という何らかのテストに落ちたとしよう。残りの98%の人にとっては不公平で偏っていたテストかもしれないので、その98%の人達が得意とするテスト内容にする。そうすると98%の人達が「普通」の基準になるので、それらの問題は「できて当たり前」になるから、高いスコアリングが行われない(平均が上がって偏差値が下がる)。そこに僅か数問であっても、当初の98%の人達が苦手とした(不合格の原因となった)元々の問題が含まれていて、結局はこれが解ける初代上位2%の人達が高くスコアリングされるという結果になる。

パラドックスのようだ。
「最初の上位2%が、ルールを変えても常に上位2%になるのか?」と問われると、決してそういうわけではないんだが、「98%の人達が得意とする」テスト内容に変更した場合、2%の人にとって不利になる確率はどのくらいだろうかと考えると、大凡この結果となるのではないかという仮説だ。
※1問1問の重さ(スコアリング)が均等ならそうはならない。

そしてまた、「今回の問題も偏っている!」と訴える人が必ず存在する。「上位2%」の反対側に立った人は、常にその可能性がある。
ではどこで満足するかというと、自分が上位2%になるように調整された問題においてだ。
多くの人が得意とするカテゴリでは平均が高くなるだけで、偏差値的には更に厳しくなるのだから、極めてマニアックな自分有利ルールのテストにする必要がある。

では極めてマニアックなルール。バイオリン速弾きコンテストとか。外科医手術コンテストとか。
「それなら任せろ!」と参加する人達は、その道の専門家ばかりなので、平均が極めて高く、偏差値が下がり、その中の上位2%を争うことになる。
もちろん、バイオリンを触ったこともない人や、外科医でもない人も含めた平均から算出する統計自体に意味がない=需要がないから(*2)、少なくともバイオリンを弾く人、外科医という母集団における平均を基準とすることになる。
(*2)これ(需要)こそが「世の中」「一般」「社会」の効力の根拠だ。日常の生活(学校や社会で)平均的に必要とされる能力(の全部または一部)ならば「人類」を母集団とし、それ以外の項目は、そのカテゴリに所属する(専門的な)人達を母集団とする。

/*
ここで使っている「平均が上がって、偏差値が下がる」という表現は、同じスコアを出した場合に、周囲の平均が上がっているため、自分の優位性が失われ、偏差値にすると「普通」に近づくという意味合いだ。日本から出なければ何も変わらなくとも、ドルやユーロが日本円に対して上がると、日本人が値下がりしたように見えるソレ。
*/


そこでたった1つの質問にたどり着く。
自分の最も得意な<何でもいいから>事で、参加者中の上位2%に入れるか。

せっかく自分有利ルールに調整していったのに、むしろ条件が厳しくなった気さえしないだろうか。しない人は上位2%が現実(実績)的に確定している人だ。
余程、世界で1人しかやってないような、極限のマイノリティ分野の第一人者(というより唯一の存在)でない限り。でも、そうすると1位も2位も、上位2%もない(笑)。

社会的に、一般的に、世の中的に「普通」なテストであろうと、専門的な、マニアックな、特別なテストであろうと、対象となる母集団100人中1位か2位になるのは簡単ではない。その事実は揺るぎない。


分の能力を示すスコアが著しく低く出るテストを、「これこそが正しい評価だ!」と言う人、言える人はなかなかお目にかかれない。
もしそんな人がいれば、「感情」を捨てた「公平性」を兼ね備え、例えそのテストのスコアは低くとも、自分の能力に加え、他人の能力の価値とその「差」を測るだけの「俯瞰力」を持っているのだから、例えば「コーチ」「アドバイザー」「プロデューサー」など、自分が「選手」にはならなくとも、人の能力を正しく評価する力があるに違いない。

/*
前述のカバーバンドの例に対して言えば、自分は歌も楽器もダメでも、CMに見事なまでにマッチする曲を選び、それで大ヒットし、原曲のアーティストに感謝される人もいる。これは他人の作品の「良さ」を見いだす仕事であり能力だ。
*/

他人の能力を理解できるということは、その本質的かつ基礎的であり、更には応用までを感じ取ることができるのだから、これは極めて知的だ。

例えば、オリンピックで金・銀・銅メダルの選手の技術的優劣を正確に採点できるだろうか。
100メートル走などはいい。ストップウォッチがあればその日、その場の優劣は付けられる。
フィギュアスケートや新体操、オリンピックにはないがバレエなども、世界のトップ3の実力を個別に正確にスコアリングするためには、選手自身と変わらないか、それ以上の知識と感性を備えていなければならない。なぜなら、「未知の技」を本人が気付かずに披露する可能性もあるから。

そう。問題なのは、自分がなぜ「低い」のか理解できない人だ。これは本当にスコアが指し示す以上に「低い」。
他人の高さを理解すれば、自分の低さがわかる。その反対も然りだ。身長やビルの高さを比べることと本来は変わらない。
それが、他人の高さがわからないものだから、そもそもその競技(テスト含む)の存在意義も恐らくは理解していない。当然、敬意を示せない。

サッカーでなかなか得点が決められない自分に腹を立てて、サッカーのルール自体がおかしい!と言い出したら、それはスポーツマン精神に則った主張だと言えるだろうか。ひいては、そのスポーツに携わる人々全員を侮辱することになる。

そして自分ルールに変えさせようとしたあげく、そのルールでも上位に入れないことに嘆く。低いから入れないことにいつか気付くのか、最後まで気付かないのかはわからないが、他人の能力の高さが理解できない限り、自分自身の座標が確定しない。「居場所がない」ということだ。

いや、社会(他者)から見た座標は確定しているだろう。見下されてるかもしれないし、自分が思っている以上に評価が高いかもしれない(これは少ない。なぜなら高い評価については他人は口にするからだ)。
自分自身の座標が確定していない人には何が起きるのか。
まさしく四次元空間の中で、クルクルと回転し、方向感も重力も引力も何も感じられない状態だ。そして自分が今まさにクルクルと回転しているその「空間」にさえケチを付ける。例えば「私が貧乏なのは国の政策がマズイからだ」といったように。それでは一般家庭から大金持ちになった人の説明が付かない。

恐らくは「努力が足りない」と自己責任の話になる前に矛先をすり替えているだけだ。
では「自分が成功する社会」にした場合、他人が失敗するか「並」に下がってもらわないと、相対的に自分が高くならない。
ということは、誰かを引きずり下ろして自分が上がることを望んでいる人でしかない。

みんなが成功する社会?
現在から未来について語るならば、理想としての数字的にあり得るが、その時が訪れるとソレが平均になるから、IQで言えば全員が100=普通になる。

結果として、全員が「均等」になることを望むか、自分が上がり、他人が下がることを望むのかの二択しかない。
※均等な社会とは、ただ「線」が無機質に並んだり交わったりする二次元社会に感じる。

こうしてみると、前述の「ちびっこ」と何か違いがあるだろうか。
どこまでいっても、性格(感情)が支配している。

改めて言うが「EQ」ではない。

だから私は、IQが高くても、学力や知識が優れていても、自分自身の感情がコントロールできない人は、その能力が発揮できないどころか阻害され、うまくいかないと考えている。

これが社会、世の中、一般的な空間における成功するか否かを決定付けていると言ってもいい。
EQと性格については、次回スティーブ・ジョブズを例としてお届けしたい。


初のテーマに戻って、本質的(特定のテスト結果ではなく総合的)なIQが高そうな人と、そうでない人の特徴(私見)をまとめた。

IQが高そうな人(A):情報のネタ元(出所)を紹介する。ニュース記事、ブログ1つとっても。自分の手柄にせず、引用、参照をもって、ネタ元に敬意を払っている。例えば「聞いた話だと、こうらしいよ」という思わせぶりな表現は使わず、さっさとリンクを張る。

そうでない人(B):「オレの知り合いに〜」「特別に教えてもらった情報」などと、自分だけ特別に得られた情報だと振る舞い、決してネタ元を明かさない。

googleが存在する限り、3つのキーワードを発した時点で情報源(記事、文献など)は特定される。

(B)は自分が「話題の中心になる」メリットをとることに対し、(A)は「有益な情報源を提供することで感謝される」メリットを選ぶ。社会における「(中長期的)存在価値」という観点から(A)の方が合理的だ。

(B)の場合、ネタ元が割れた時点でスルーされ、周囲の興味はネタ元に向かうし、周囲は必ずネタ元を割だそうとする(出し抜こうとする)。なぜなら、多くの場合「あいつにそんな特別な情報が入るはずがない」と踏んでいるから。踏み台にしかならない。

(A)は一瞬なりとも、周囲はネタ元にしか興味がなさそうに感じるかもしれないが、その後も有益な情報が得られるかもしれないため、「情報屋」的な価値があり、関係が維持される。そして最初の情報源であれば(または、早ければ早いほど)、ディスカッションの相手として存在が確立する。なぜなら他はまだ意見を述べる状態に至っていないからだ。先駆者的とでも言おうか。

そしてリスク管理だ。もしその情報がデマや誤りだった場合、(B)は本人及びその知人まるごと使えない存在になってしまうが、(A)はあくまで情報源の「誤報」を引用したに過ぎずない。どこまでも現実に忠実だ。

本人の見た目(職業や役職、所得など。最近ではgoogle検索能力)以上の情報は入ってこないのだから、さっさとネタ元を明かす方が賢い生き方なんじゃないかと思う。

また、IQとは別に、インターネットがなかった時代に生きた世代にも同様の特徴が見られる。

「オレの知り合いに●●を▲▲してるやつがいて、この前は■■が××になったらしく、特別に見せてもらったんだけど」「あっ、それYoutubeで見ました(3ヶ月前)」的な。

今のパソコンを使いこなす20代若手の検索能力は非常に優れている。
※ただし、スマートフォンしか使わない(パソコンを持っていない)人達は、30代のパソコンユーザーと比べむしろ後退している。

自分のところに情報が回ってきた時点で、偏差値的に分布を考えた方がいい。
世の中的に、自分の手に入るんだから、他の人も早かれ遅かれ手に入るのが普通だと考えた方が間違いがない。自分だけに手に入った情報は、フィッシング詐欺の可能性が高い(笑)。

オバマ大統領と私がFacebookで友達になったとしても、大統領のニュースフィードで得られる情報は、私だけの特別なものではないし、大統領が「公」にして良い情報のみに限られる。そこで私が「オバマ大統領から特別にISISへの見解を聞かせてもらったんだけど」なんて言おうものなら、「あ、私も今朝読みましたよ、その“ツイート”」的なことになる。
Facebookだけでなく、ツイートもしてたのか!じゃ手遅れだしイタイ。

インターネットがない時代は、そうやって自分を凄そうに(価値高い人間かのように)振る舞うことで、実際に周囲はそれに惹かれてついていく時代が存在したのも確かだ。
「黒塗りのベンツ」とか、今じゃどうでもいい大げさな表現が沢山あった。この15年は「俺んち白塗りジャガー」「私んち桃塗りロールス」みたいな。

こうして、時代の流れに合わせて、賢く見える振る舞い方とは変わるものであり、もし何かを他人に示したいのであれば、社会、世の中、一般の「目」が判断している“評価”基準に沿った実績を提示するしかない。

現時点での私の結論として、社会とか世の中とか一般とか、そういったものを壊せば、自分を自分たらしめる相対的対象物を失い、必然的に自分も“無価値”になることを意味するということだ。

というわけで次回は、天才スティーブ・ジョブズを例として、才能、感情、性格、EQなどの相互作用を分析してみたい。

11月13日、15日、12月15日、「オンラインIQテストの信憑性をメンサ&WAIS-IIIと比較。」にオンラインIQテストを4件追加した。

お知らせ:気になる記事にコメントを添えてご紹介するチャーリーのタンブラー(毎日更新)を始めました。

■目次
 1ページ:噂のメンサは本当に高知能なのか。実験台になってみた。
 2ページ:WAIS-III ウェクスラー成人知能検査を受けてみた。全額負担で。
 3ページ:オンラインIQテストの信憑性をメンサ&WAIS-IIIと比較。
 4ページ:Cambridge Brain Sciencesをやってみた。
 5ページ:「上位2%」は100人に2人や50人に1人とは限らない。パラドックス的な。
 6ページ:知能レベルが高い人ほど人を信じやすく、低い人はあまり人を信じない?
 7ページ:言語性知能。片言の外国人との会話から考察。
 8ページ:知能、お金、容姿。○○だからいいってもんじゃないという不思議な理屈。
 9ページ:東大首席の山口真由女史の言う「俯瞰力」とは。
 10ページ:頭と心、理論(Logic)と感情(Emotion)。
 あとがき:知能指数とは。良き理解者へ。あとがき。
 別冊:色盲とIQ。色が絡むとIQ(判断力?)が著しく下がる。
 別冊:知能指数(標準偏差15,16,24換算表)と出現率をエクセルでまとめてみた。
 別冊:国別のノーベル賞受賞者数とメンサ会員数。
 追加少年からのお便り。
 追加知能検査で天才を探す欧米と、診断目的でしか使用されない日本。
 追加学力偏差値でいうところの上位2%とは。
 追加IQ 162以上を正確に測定できるのか。唯一の解答者は「運命の人」なのか。
 追加賢い人、賢くない人の特徴。IQ、学力、知識を束ねるのは性格(感情)。 現在ページ。
 追加天才とEQ。スティーブ・ジョブズのEQは高いのか。
 追加オンラインIQテストを標準化する。本物の値に近づけたい人のために。
 追加優れた能力は“発信”しよう。自慢ではなく事実を示せばいい。
 追加メンサ会員と東大生はどっちが“強い”のか(笑)。
 追加IQベースの児童英才教育は注意深く進める必要がある。
 追加都合良く曲解されているEQ。元々農耕民族の指標ではない。

Photographer&Engineer: Charlie
JAPAN MENSA会員
AEAJアロマ検定1級(笑)

チャーリーのタンブラー(毎日更新、日記・ブックマーク的な)

by charlie-ls | 2015-12-18 15:05 | 寄稿ブログ

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